何か具合が悪くて病院に行くと、まずはCTとかMRIとかとることが多い。以前のX線写真と異なり、人の体を輪切りにして映像化する技術は、医師にとっても患者にとっても分かりやすい。詳細な体内の様子から、医師は的確な診療をすることができる、ことになっている。大きな機械の中に入る不安感はあるものの、非侵襲であれほど精緻な画像で体内の様子が分析できる技術は医学に大きな進歩をもたらした。
ところが、こうした先進技術が必ずしも適切な診療につながっていないという指摘を見つけた。人間の体の中にある臓器の数は変わらないにしても、大きさや形状など結構個人個人のばらつきが大きく、そうした個人差を疾病と誤診することもあるらしい。また、小さなガンが見つかった場合でも、非常に進行が遅く積極的な治療をする必要のない場合もあるのだけれど、一旦「病巣」が見つかると、それを排除することに医師も患者も突っ走ってしまうこともあるという。人間というのは何か変化を探す癖があるので、CTスキャンを見ても、その習性がでてしまい、通常の範囲内の変化を、見つけたいと思っている病変とみなしてしまうこともあるのだという。一旦問題が見つかると、2次3次の検査ということになって、ありもしない疾病を見つけるための多大なるコストが発生することもままあるらしい。
こういう医学のお話の詳しい真相はよくわからないのだが、我々のようなエンジニアリングの世界や会社の経営、さらには営業などにおいても、もしかすると同じようなことが言えるのかもしれないと思った。最近では、なんでも「見える化」が大事ということになっている。運転している機器の状況や、会社の資金の流れ、ビックデータによるマーケットのニーズの把握など、いわゆるDX化によって比較的容易にデータが集められる時代になったこともあり、とにかく数値化してそれをビジュアルに訴える形で表現することが行われる。言ってみれば体の中をCTスキャンするのと同じように、いろんな状況を可視化するのである。確かにそのような分析をすることによって、これまでよくわからなかった装置の劣化や企業の問題、さらには顧客のニーズなども見えてくるかもしれない。
しかしである。医学におけるCTスキャンによる誤診同様、「見える化」によって見えてきた知見が、果たして対応しなければいけない喫緊の課題であるかどうかは、ちょっと立ち止まってよく考えた方がいいのかもしれない。それはデータのばらつきによる通常の変化であることも考えられるし、データから見える結論というよりも「経費の使い過ぎ」というアタマの中にある課題意識が作り出した幻影なのかもしれないのである。最近ではとにかくメモリの値段は限りなくタダに近いので、多くのデータを集めてもほとんどコストがかからない。できるだけ精緻にデータを集めた方が、偏りのない良いデータが得られると皆思っている。しかし、データの量が多くなればなるほど、どんな結論でも導くことができるといったら言い過ぎだろうか。ちょっとした処理の手法やパラメータの変化によって、得たい結論に近づけることはいくらでもできるのである。見える化は悪いことではない。でも、その先にどんな結論を導くかはよく考えた方がいいような気がしてならない。
© 2005 TOKYO GAS ENGINEERING SOLUTIONS CORP. all rights reserved.
個人情報のお取り扱いについて サイトのご利用について