アスリートでオリンピックにも出場した為末大氏の書いた「熟達論」を読んだ。さすがに3度もオリンピックに出場するだけのことはあって、理路整然と為末氏が専門種目に熟達していった過程がまとめられていた。時々テレビのコメンテーターなどとしても活躍しておられるのを拝見するが、著書の中ではかつてのスポコン(スポーツ根性もの)とは全く違うレベルのお話が展開されていた。詳しいことは是非本を読んでいただきたいのだが、簡単にまとめると熟達には次の5つのレベルがあり、それぞれのステップに一文字の漢字が当てられている。
遊:遊びとは主体的であり、面白さを伴い、不規則なものである。 型:土台となる最も基本的なもの 観:型により基本が無意識にできるようになり、一つ一つを部分に分けて互いの関係がわかるようになる。世界の解像度が上がる。見るとは分けること。 心:型を手に入れ構造がわかると、ここを押さえればうまくいくという点を見つけられるようなる。この核となる部分が心である。中心がわかると冒険できる。 空:意識する自分からの解放
エッセンスをちょっとだけ書き出しておいたので、何となくのイメージは分かるのではないかと思うがどうだろうか。
自分は運動は全然ダメなので競技の熟達についてはさっぱりわからないのだが、40年間もやっている研究開発なら少しは経験もあるし、ここに示されている5つのステップは研究開発における熟達のプロセスおいてもほとんどそのまま同じことが言えるのではないかと思いついた。それは多分研究開発に限ったことではなく、人生におけるいろんなプロセスにおいても似たような過程を経て熟達していくのだろうと思うがどうだろうか。ただ、その中でも
遊→型→観→心
ここまでのプロセスというのは、何となくわかりやすいのではないだろうか。自分の技術屋人生においても、紆余曲折はあったものの、何となくそんなプロセスを経てきた気がする。ただ、最後の「空」というプロセスは何だろう?意識する自分からの解放と言われてもなんかよくわからない。色即是空とか、そういう宗教的な色彩も感じられる言葉ではあるが、それだけではさっぱりわからない。
技術者にとっての空とは、自らの限界を認めることと関連するような気がする。この問題はこれまでも何度も議論してきたことだが、自分の理解する技術(科学)が万能であって、すべてを解決できると思っている間は、その先にあるフロンティアをつかむことはできないという話だ。無力だから何もしなくてもいいということではなく、人事を尽くして天命を待つという気持ちに近い。工場にある安全祈願のお稲荷さんのような存在は為末氏のいう「空」ときっとつながりがあるのだと思う。
© 2005 TOKYO GAS ENGINEERING SOLUTIONS CORP. all rights reserved.
個人情報のお取り扱いについて サイトのご利用について