駒澤大学の小川隆教授は、インタビューの中で西洋画と山水画の比較を概略次のように述べている。
「ヨーロッパの絵は遠近法によって描かれている。遠近法というのは、視点があらかじめ一つに固定されている。固定された一つの視点からの距離と角度で、全体像が再構成されている。でも、中国の山水画はそうじゃない。遠近感がない。だから、外から絵をみているというより、絵の中の人物になって、そこにある道を歩いているように思える。そこに描かれているのは空間の構造ではなく、時間的過程じゃないかと思う。」
日本にもかつては遠近法という考え方はなかったと思うし、例えばエジプトのピラミッドに刻まれたレリーフも皆横を向いた遠近感のない人物ばかりが描かれていた。なんとなく古い未発達の描画法が遠近法という「リアル」な描画方法に進化していったように思っていたが、小川先生の話は、古くて原始的な方法と近代的な方法という比較ではないと言っているようだ。
同じ本の中で立正大学の野矢茂樹教授は、今一般に受け入れられている心とからだを別々のものと考える「心身二元論」という枠組みとは異なる立場から考える「心」の定義において、「他と共有されてない意味付け」が心ではないかと言っている。では意味付けとは何かというと、それは物語によって決まるものだというのだ。今ここだけではなく、過去からのどういう来歴があってこうなっているのか。その物語を共有することができれば、他人がそれに与えている意味、すなわち「他人の心」が私にもわかるのだろうという。
こうしてみると心身二元論というのは、遠近法の考え方と同じである。画家という自然からは分離された視点から見た世界を客観的に描く方法だ。これに対して、山水画のような方法は、画家の視点がどこにあるかは定かではない。森の中を探検しながら、そこで見たものを書き留めていくような物語がそこにはあるという。それは野矢教授の主張する心そのものである。
高度に科学が発達し企業がグローバル化した現代、西欧的な心身二元論によって世の中は理解されてきた。デカルトのいう「われ思うゆえにわれあり」である。誰が見ても世界は同じように存在し、それは理性によって正しく理解されると。でも、どうもその中で私たちは心をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。人々は争いに疲れ心を病んでしまった。でも、心はそんなに遠くにあるわけでもないらしい。つまり他の人たちと物語を共有すればいいのだから。
「人の物語を共有し、固定された視点や立場を持たないあり方、いまはそんなものがひそかに求められているのかもしれない」と小川先生は指摘している。美術館で山水画やエジプトのレリーフをゆっくり眺めてみたくなってきた。
参考文献:加藤哲彦編 『「問う」を学ぶ 答えなき時代の学問』 2021、トイビト
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