自然と書くと我々はふつうこれを「しぜん」とよむ。でも、この漢字にはもう一つ「じねん」という読み方もある。「しぜん」と読むとき、それは人間の文明に対するいわゆる自然(ネイチャー)というニュアンスがある。これに対して「じねん」と読むときには、ちょっとその意味あいが異なるのだという。それぞれの漢字を別々に読むと自(おのずから)然(しかる)ということになり、つまり本来的にそうであること、もしくは人間的な作為のくわえられていない、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しないのだという。両者は似ているような似ていないような微妙な感じかもしれない。
我々も含めて現代の人々は、「ここに自分がいる」ところから全ては始まって、その自分とは明確に境界線を引いた「外界」を観察したり、何らかの働きかけをしたりしていると考えている。科学という枠組みは、その考えの最たるものであり、観察者が何を考えるかとか、誰が観察するかということとは関係なく、自然(しぜん)という外界は統一的に振る舞うと考え、そこに潜むルールを見つけ出すという営みである。自然のルールの根底にある原理は「因果律」であり、つまり何らかの結果には必ず原因があるとし、その因果関係によって世界を理解する。ある意味この作戦は大成功を収め、人類は科学に立脚した偉大な文明を築いてきた。
他方、「じねん」の考え方では、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的にはひとつであること」を認める態度につながるというのだ。なんか怪しげな宗教みたいと思うかもしれないが、古来の日本の自然観や中国の老荘思想などの根底にある考え方だという。こういう考え方は哲学だけの話かというと、必ずしもそうでもない。例えば仕事をしている時、自分でどう考えようが、物事が結局収まるところに収まるようなことがあることは、多くの人が感じていることではないだろうか。それは、ある意味において自分も含めた様々なものの関係によって自ずと決まっていることであり、何かが原因でその結果何かが起こったということでもない気がするのだ。そこには場の空気、雰囲気というようなものが明らかに存在する。そういう流れに逆らおうとしても結局はうまくいかない場合が多い。いろんなことがつながった関係性の中で物事は動いているのであり、ある意味、周りで起こっていることと自分の心のあり様は独立しているとは言えないだろう。
参考文献:河合隼雄 『宗教と科学の接点』1986、岩波書店
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