ちょっと前に「他力本願」について書いたとき、「利他」についても少しふれた。「利他」というのは、「利己」の反対の言葉で、文字通りの意味は他人が利するような行動のことをいうのだが、最近この言葉を聞くことも多くなってきた気がする。いろんな社会問題が山積する中、すべての人が利己的に動いていたのでは、それらを解決することはできないので、もっと皆が「利他」の心をもって寛容に生きるべきという話ではないかと最初は思った。しかし、そういう表面的な利他的行動には本質的に、
「これをしてあげれば、相手にとって利になるだろう。」
という本人の思いがあるという。そう願うことは自由だけど、そうした思いは最終的には、
「相手は喜ぶべきだ。」
という気持ちにつながり、結果「利他」の心は相手の心を容易に支配することにつながるのだという。確かにそういう側面は否めないだろう。
これに対して本当の「利他」というのは、「自分の行為の結果はコントロールできない。」という視点にたつことだというのである。やってみて相手がどう考えるかはわからない。わからないけれど、それでもやってみる。この不確実性を意識しない利他は、押し付けだし、ひどい場合には暴力的にさえなるというのである。
「利他」というのは、そういうものではなく「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことであり、同時に自分が変わることであり、そのためにはこちらから善意を押し付けるのではなく、むしろうつわの様に「余白」を持つことが必要なのだという。ちょっと難しいけどニュアンスはわかるだろうか。患者の話を聞くだけでその解釈を行わない治療法や、もともとのロードマップにはなかったアイデアを受け入れる「余白」の存在のように、自分が自分がという部分をぐっと押さえた行動こそが「利他」につながるというのだ。
我々は意識をもってすべての行動をしていると思っている。でも、利他的な行動とは、もっと受動的なもののようである。人の話ばかり聞いていてもちっとも答えは見つからないと思うかもしれないが、じたばたしても結局物事というのは案外収まるところに収まっていくような気もする。若いころには思わなかったことだが、歳をとるにつれてそういう感じもだんだんわかってきた。一度自分の考えを横において、ひたすら周りの声に耳を傾ける、うつわのような気持ちを持ってみると、それが利他につながり、案外進むべき道がみえてくるような気もするのだがどうだろうか。
参考文献:伊藤、中島、若松、國分、磯崎 『「利他」とは何か』 2021,集英社新書
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