プラセボ製薬株式会社という冗談みたいな名前の会社の若き社長、水口直樹氏の書いた本の題名である。以前、複素数についてコラムを書いたときに、同じようなことを言っている人がいますよと教えていただいたのがこの本である。プラセボ製薬という会社は医薬品を製造する会社ではない。薬効が全くない糖質とかそういう成分を、あたかも薬のように見える形にして販売しているのだという。医薬品ではなく食品を販売しているというのが、この会社の公式のビジネスである。
プラセボという言葉を聞いたことがある人も多いと思うが、偽薬を飲んだ人が普通の薬を飲んだ時と同じように病気が改善したりするのをプラセボ効果という。飲んだ薬が、偽薬であることを知っている場合もあれば知らないで飲む場合もあるらしいが、とにかく服用によって何らかの前向きな効果が得られることがあることは広く知られている。戦争中にアメリカの医師が、モルヒネが底をついてしまったので、しかたなく生理的食塩水を注射したところ兵士の痛みが軽減し、医師自身がその効果に驚いた。こういう話はいろんなところに転がっているらしい。
プラセボ製薬が作る偽薬の使われ方は、前述のプラセボ効果とはちょっと違うけど、例えばお年寄りが朝薬を飲んだことを忘れてしまって、また薬を飲みたがったときに偽薬を飲んでもらうことによって、薬の過剰摂取を防ぎつつも本人の満足感がえられる、なんて使い方があるのだという。無駄に薬を消費せず、本人も余分に薬を飲まずに済むわけで、良さそうな話だと思った。これまでも何とかプラセボ効果を数値化しようという試みが行われたらしいのだが、何分飲む人の気持ちや、心の部分が関与してくるので実験結果がぶれてしまう。 まあ、いわば信じる者は救われる的な話なのでいたし方がないのかもしれない。
医学を含む科学という枠組みは、効く効かないという程度を数値化して、薬や治療法をその軸の上にプロットしてきた。抗生物質や外科手術によって疾病が著しく改善されたことは、その軸の上で評価され、その結果は誰がやっても何度やっても再現性がある。逆に言うと、その効能という軸の上にきちんと定位できないものは、科学(医学)ではないとされて排除されてしまう。プラセボ効果なんていうのは、怪しい似非科学に過ぎないという話になってしまうのである。
そこで著者は、治療全体の効果を、科学的に説明可能な効果とプラセボ効果に分別し、それらをそれぞれ実軸と虚軸に設定する事を提案、全ての治療はこの2つの軸からなる平面上の点として表わされると主張する。ここで大切なことは、自分には自然治癒力が備わっており、偽薬がそれを引き出してくれると信じること。二乗するとマイナス1になるリアルじゃない数である虚数というのは、心のありように影響されて数値化しにくいプラセボ効果を表わすにはなんかぴったりくる気がしないでもない。じゃあ、そういう操作をして治療を平面の上にプロットして、具体的にどうするかについてはあんまり書かれていないけど、とにかく科学の枠組みに収まり切れないプラセボ効果を議論のテーブルに乗せることは大きな前進だというのだ。確かに、ちょっと前に議論した虚数の話とよく似ている気がする。
水口直樹 『僕は偽薬を売ることにした』 2019,国書刊行会
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