他力本願という言葉を私たちは日ごろの生活の中で時々使うことがある。どちらかというと前向きな意味ではなく、人だのみで何かとしようとするようなニュアンスで使われることが多い。でも、この言葉はもともとは親鸞が興した浄土真宗の中心的な考え方に関連した言葉で、我々が普通使っている意味とは全然違うことを指すらしい。最近読んだ本の中で解説されていたのでそれを紹介しようと思う。
人は何かをしようとするとき、まずは何とか自分の力でそれをしようと思うだろう。自力本願である。自分に高いスキルがあったり、様々な知識を持っていたりすればなおさらだ。これまでの経験に照らして、どんな事であっても強い信念をもってすれば、どんな苦難であっても乗り越えられると思うかもしれない。そういう自信を持つことは、なかなか若いころにはできないかもしれないが、いろんな苦労を積み重ねていくことによって自分の得意な分野が定まり、少なくとも得意な分野においては、どんなことでも達成できると思うようになる。まあ、それがプロというものかもしれない。
でも、いくらすごいスキルを持っていてもすべてのことが解決できるわけではないと認めることがすごく大切であると親鸞は主張する。もともと人というのは罪深い存在であり、極めて小さな力しか持ちえない。自分でなんでもできるなどと思うことは思いあがり以外の何物でもないという。エリート街道をまっしぐらに歩み、いろんなプロジェクトを成功させてきた人にとっては、受け入れられない主張かもしれない。
「それはあなたの努力が足りないからではないのですか?やり方が稚拙なんです。」 そんな言葉が返ってきそうだ。でも親鸞は、自分の限界に気づき、生きることは醜い悪であるという思いを謙虚に受け入れることができたときに、「他力」という仏様の力がやってきて、その人は救われると説く。親鸞の思想の中にでてくる「悪人正機説」という時の悪人というのは、自分はどうしようもない存在、いわば「無」であると認識した人のことを指すらしい。犯罪を犯した方が天国に行けるというような意味ではもちろんないのだ。(当時、そういう風に誤解した人もいたらしい。)
以上の話は宗教的な色彩を持った人生全般にかかる事だが、最近自分で考えている科学の限界や新たな技術の開発などとすごくオーバーラップするところがあると思ったのだ。つまり20世紀の科学万能の時代は、いってみれば社会全体が自力本願の気分であった。しかし、ここにきて度重なる自然災害や原発の事故など、なかなか人類の手に負えないような事が頻発するようになってきた。もちろん、そうしたチャレンジングな問題に対しても精いっぱい科学という武器で立ち向かう事を否定するわけではない。でも、所詮人類にできることには限りがあり、小さな存在であると認めることが大切ではないかと思うのである。そういう謙虚な諦念を持った時、来るべき次の時代がうっすらと見えてくるような気がしてならない。まさに他力本願である。
この本は、他力本願についてだけ書かれたものではなく、中島先生の研究のキーワードである「利他」に関して述べられている。その本のおわりのところに、利他を実践するための方法論が書かれていた。
「だから利他であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。能力の過信を諫め、自分を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになる。」
まあ、方法論と言えるほどすごいノウハウでもなんでもないのだけれど、今私の心にはすごく重く響いている。読者の皆さんにはどう響いているだろうか。
中島岳志 『思いがけず利他』 2021年、ミシマ社
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