コロナの影響で働き方が大きく変わった。在宅勤務が多くなり、何か特段の用事がなければ会社にはいかない。最初は違和感があったが、リモート会議にもずいぶん慣れて、ちょっとした打ち合わせは皆リモートになってしまった。まあ、それでも話はつく。コロナが落ち着いてきた今、これからもこのようなスタイルが続くのだろうかと漠然と考える。
目の前の仕事はまあどうにかなるのだが、同僚との何気ないコミュニケーションや他の部の人たちとの相談となると、コロナの影響はすごく大きい気がする。想像していなかったような情報がフラッと舞い込んで来たり、同僚からちょっと相談を受けたり、ということが本当に少なくなった。コロナで当然飲み会もない。私などは、それでも社内の人を結構知っているのでメールでやり取りもできるが、新しく入社した人などは人脈もなく仕事もさぞしにくいだろうと思う。
でもなぜマンツーマンのコミュニケーションが必要なのだろうかと漠然と思っているときに面白い本を見つけた。この本の著者は岡山大学の先生で、人類学が専門でエチオピアの研究をしているという。なんでもエチオピアに行くと、たとえ見知らぬ人でも対面的な状況では知らん顔をせず何らかのコミュニケーションが求められるという。バスで隣り合って座った人から突然「タチャウト(なんか話して)」と声を掛けられ、それに「イシ(オーケー)」という言葉をかえす。ちょっと日本ではありえない会話だ。でも、彼らがお互いを信用しているかというとそうでもない。なんか適当なのだ。お話はするんだけど、時に嘘はつくし、いいかっこしたがるし、約束を忘れるし、面倒くさくなるし、所詮人間なんてそんなものなんだよなといった感覚があるのだという。なぜこういう行動をするのかというと、アフリカの考え方の根底にあるのは、人間を「不完全な存在」とみなす伝統があるかららしい。不完全な存在って何だろう?
私たちを含め西欧的な考え方では、自分と他人は全く別の人格であり、自他の間にはかっちりとした線を引く。相手は相手自分は自分だ。でもアフリカの人たちは、そうした境目があいまいで、人という存在も不完全なものとして認識しているのだという。そういう世界では、相手の言っていることが正しいか間違いかも当然はっきりしない。だからすぐに多数決なんか取らないでぐずぐずと話をする。いつまで話をしているんだろうと思うくらい話をした後で、何となくどうするかが決まっていく。そういう社会がアフリカにはまだあるのだ。
別に日本でアフリカの生き方を再現せよと言っているわけではない。でも、仕事の上で付き合う企業や、会社の同僚などの存在を、相手は不完全な存在であり、その輪郭もぼやけていると考えてみることは大切なことではないかと思う。敵でも味方でもない。そして、そういうあいまいな輪郭から染み出してくるものを感じるためには、やっぱりリアルなコンタクトが大事になってくると思うのだ。話をしている人の目線であったり、貧乏ゆすりだったり、いろんな揺らぎが見えてくる。そういうことが大事なのだと思う。相手が不完全でぼやけた存在だと思えば、いろんなことに腹を立てなくて済む気もする。
松村圭一郎 『くらしのアナキズム』 2021年、ミシマ社
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