ちょっと前に物事にはいろんな見方があるということを書いた。太平洋戦争における世界情勢には、日本からの一方的な見方だけでなく中国からの見方もあるという話だった。この話を歴史の一ページとして今見ると、なるほどねえと思われる方も少なくないかもしれない。でも、世界大戦における国家の関係のような大げさな話ではなくても、小さな身の回りに起こる出来事だって実は同じだということを今回は指摘したい。
例えば身内に不幸があったとしよう。天命を全うし、その生涯を静かに閉じた。それは生物学的には人間という生物の死以外のなにものでもない。しかし、その死の意味はそれだけだろうかと思うのだ。家族として長年一緒に暮らしたメンバーの一人がいなくなることの意味とは何だろうか。たぶん、現在時制で事が進んでいる時には、なかなか気が付くことができないかもしれないが、少し時間がたって落ち着いてその時の状況をもう少し俯瞰的に見ることができるようになると、自分にとってそのイベントのもうちょっと違う意味が見えてくる。家族における自分の役割の変化かもしれないし、自分の中で起こっていた成長のプロセスが一つの区切りを迎えたのかもしれない。どういう角度からその出来事をとらえるかによって、その意味は全く異なる。
ちょっと話が重くなったが、別の例として、会社で定年を迎えるというのはどうだろうか。それは一義的には年齢が60歳になって会社との関係に区切りをつけることである。でも、定年の意味はそれだけだろうか。30年以上にわたって積み上げてきたプロとしてのスキルがあるレベルに達して何か新しいことを始める準備ができたことの象徴としてこのイベントをとらえることはできないだろうか。
自分の今までの人生を振り返ってみるとき、大学に入ったり、会社に入ったり、海外で研究をしたり、マンションの理事長をしたり、世界で初めての機器を開発したりなどなど、いろんなイベントが起こったのだが、それはその出来事の文字通りの意味の他に、自分の中で起きつつあった化学反応が違うレベルに到達した瞬間だったように思えてならない。そのステップの多くは、結構つらい事を伴って起こることが多かったように思うが、それを何とか乗り越えたときに人生はいつも新たな局面を迎えるのだ。
物事の意味は、その事柄の文字通りの意味だけではない。そこにはいくつもの(たぶん無限の)意味が隠されている。それはそれを見る人の見方によるのである。文字通りの意味しかないと思う人には、そのようにしか見えない。でも、そこにいろんな意味があると思った時、そのイベントはいろんな色で輝き始めるのだ。もっと言うと、その無限の意味というのはそれを見る人の心の中にある思いの投影である。それは個人的な出来事にとどまらず、たぶんコロナだって地球温暖化だって北朝鮮情勢だって、皆が心の中にシコリのようなものとして持っているに違いない。そんな風に世の中を見ると、誰が悪いとかそういうことはだんだん気にならなくなってきた。
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