会議の意味

 
  Vol.237
2020年6月26日
 
     
     

緊急事態宣言は解除されたものの感染者の数がすっきり下がらず、なかなかすっかり安心とはいかない日が続いている。季節が進むにつれて気温も上がり、マスクをつけて外を歩くとちょっと暑い。夏に向けてコロナとどうやって付き合っていくかが試されている。

さて、最近ではテレビ会議にもすっかり慣れて、会議の招待メールがポンポン入ってくるようになった。まだ、会議が始まる時にうまくいかずドタバタすることもあるが、まあ仕事の一部として定着した感がある。いちいち相手のオフィスに出かけなくても会議ができるから、電車に乗っての移動時間が節約できるので確かに効率も良い。

 メールの普及に伴って「今」という時間が薄まってしまった、ということを書いたことがある。つまり、メールを送っても相手がそれをすぐ読むかどうかはわからない。メールを書いた瞬間と、それを相手が読む瞬間の間に「今」は薄められてしまった。テレビ番組だって同じ。昔だったら土曜の8時にチャンネルを合わせてテレビを見なければ「8時だョ!全員集合」は見られなかったけど、今やデジタル録画しておけばいつでも何度でも番組を見ることができる。興味のないコーナーやコマーシャルなんか早回しでどんどんとばしてみれば効率も良い。デジタルカメラだって、ものすごい勢いでシャッターを切ってたくさんの写真を撮り、その中から一番いいものを選べばいつもいい写真が撮れる。やり直しのきかないフィルム写真とは雲泥の差だけど、写真家がシャッターを切る刹那、つまり「今」への思い入れはすっかり薄まってしまった。

メールによって人々は時間を超越した。テレビ会議によって人々は空間をも超越してしまったといえるかもしれない。相手が南極にいようがシベリアの真ん中にいようが簡単に会議をすることができるようになった。でも、私はテレビ会議のその利便性そのものによって失うものがあることを指摘したいと思う。会議のためにわざわざ新幹線に乗って大阪から東京まで出張する手間や、午後1時間の会議のために何人もの社員が電車に乗り継いで相手の会社に出向き、受付で待たされてやっと応接室で打ち合わせが始まるまでの手間、こういう手間そのものに意味があるのではないかということだ。つまり商談をする相手に対しては、それだけの手間をかけてでもこの会議に出ているんですよという「本気の思い」が、リアルの会議に出向くことによって伝わるに違いない。そして、その思いは、無駄がより無駄であるほど強烈に伝えられるはずであり、いうまでもなく商売をするにあたって「本気の思い」はとても大切な事柄だと思う。

だからとってテレビ会議は止めてすべてをリアル会議に戻した方が良いなどというつもりはない。部内の連絡会議に出るにあたって、わざわざ会社に行って「本気の思い」を部長に示す必要はないだろう。でも、テレビ会議によって時に失われるものもあると意識しておくことはあながち無駄ではない気がする。そして、それはテレビ会議ソフトをいくらいじくっても解決されないことにも注意が必要だ。なぜなら、移動の無駄をなくして効率化するというテレビ会議のもつ本質的な意味がもたらす問題だから。





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