理解するプロセスについて

 
  Vol.231
2020年3月31日
 
     
     

ここ何年か山登りが趣味の一つになっている。無線機まで担いでの山登りは良い運動にもなっていると思っているのだが、週末にどこの山を登るかを検討するとイメージがわいてくる候補になる山の数はいくつもない。同じような山ばかりである。例えば伊勢原の大山、小田急線で伊勢原まで行ってそこからバスで山を目指すのだが、バスの本数も多く至極便利ではあるものの、もう何回登ったか数えきれないぐらいだ。

実は無線仲間でよく山登りに連れて行ってくれる友人がいるのだが、彼が選ぶといろいろと新しい山に連れて行ってもらえるのでとても新鮮で助かっている。  しかし、じゃあ今度の山登りはこの間のその山に登ろうかと思っても、どこをどうやって行くのが良いのかちっとも覚えていない。山の上の景色や頂上の様子などは何となく覚えていても、どうやってそこまで行ったのかになると全く記憶から飛んでしまっている。なぜこんなことが起こるんだろうか。(単に年を取って記憶力が落ちているという話はあるのだが、ここではその話は置いておく。)

車に便乗させてもらっていくので途中の道をよく見ていないことも、理由の一つに違いない。もちろん出かける時には、中央高速のどこで降りて、そこからどこの山道を通っていくということは一応インプットされているのだが、それだけの情報ではどうも長期的な記憶には繋がらないらしい。自分で運転したり、一人で電車に乗って行ったりしたところというのは結構記憶に残りやすいようだ。当たり前のようにも思えるが、なぜこんな事になるのだろう。

自分で運転をして目的地に行く場合には、降りる高速のインターチェンジの名前の他に、料金所を出てからの進む方向や、信号を曲がるときに交差点にあった郵便ポスト、朝飯を買うために立ち寄ったコンビニエンスストアなどの多くの雑多な情報がインプットされる。記憶の大筋として残るべき道順の他の、そういう雑多な情報というのが人の物事の認識には重要なのではないかと思うのだがどうだろうか。ここに挙げた情報はまだ文字にできる程度のものだけど、例えば車の窓から見える景色などというものは、膨大な量の画像データである。こういうゴミに近いようないろんなデータに意味を与え、一緒に関連付けることによって人は記憶を形成しているのではないかと思うのだ。

人は何かを理解するためにインターネットで検索したり本を読んだりしたりする。もちろんそれは便利な方法ではあるのだが、本当に理解するためには十分ではないこともあるに違いない。特に記憶に定着させるためには、その事実の周辺にある雑多な物事を一緒に取り込む必要がある。言い換えると、物事の理解というのは人ごとにそれぞれ異なるともいえるだろう。なぜなら、それぞれの人が経験する雑多な記憶は人ごとに異なるからである。言葉という道具によって表現されると全く同じであっても、それがどのように理解されているかは、それぞれの人ごとに、時には大きく異なることもあるだろう。

コロナウイルスの蔓延によってテレビ会議をすることも多くなった。打ち合わせの代わりにメールで済ませることもあるだろう。人間同士の直接のコンタクトを避けるための技術として誠に便利なツールであり、今はそれを最大限に利用すべきだ。しかし、相手の表情や体の動き、声のトーンなど、本筋の話の内容とは関係のない雑多な情報がインターネットを通すことによって失われていることにも注意が必要だろう。物事の本当の理解は、人間の細かな表現によってもたらされる。やはり神はディテールに宿るような気がしてならない。





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