2013年8月16日
Vol.152
 
     
事実の持つ幅について

ビジネスをする場合でも政治をする場合でも、我々はそれまでに起こった事実を認識した上で次の一手を打つ。目の前の仕事の判断だけでなく、長期的な予想に基づいてビジョンを策定し、年度展開に落とし込んで実行する。もちろん、すべてが予想通りにいかないから、時には計画を修正することもあるだろう。

ところが、長期的なシナリオとかビジョンというのは、ほとんど当たらない、と言ったら言い過ぎだろうか。世の中には評論家という人種もたくさんいるのだが、これから何が起こるかということについてのそういう人たちの正解率は非常に低いのだという。大ヒットの製品が出たとき、過去に起こった成功の理由についての分析は、実にまともなことを言っているのに、残念ながら未来に何がヒットするかということになると、さっぱり当たらなくなるらしい。なぜか。

もちろん、未来を予想することは大変なことには違いがない。だが、これまでに起こったことをきちんと分析すれば、それなりに未来が見えてもいいのではないかとも思える。しかし、これまでに起こった「事実」そのものに未来の予測を難しくしている原因があるのだという本を見つけた。

例えば8月15日は終戦の日であるが、昭和20年8月15日に生きていた人にとって終戦の日ということの意味は、その日においては十分に理解されていたと言えないというのである。終戦の後の日本の高度経済成長を、もし予測するならば、昭和20年8月15日を挟んだ、未来を含む長い年月のいろんなことを織り込んだ上で「終戦の日」を理解しないことには、その後の展開を正確に予想することはできない。でも、それでは未来を知っていないと未来を予想できないという、自己矛盾した話になってしまう。ここに未来予測の難しさの本質があるというのである。

ある事実が、あるタイミングで起こったということについて、日付と事柄を結びつけるだけであれば、別に未来のことがわからなくてもその事実を表面的に理解することはできる。しかし、未来を予想しようとして、注目する事柄の意味を追求すればするほど、その事実は時間方向にぼやけてしまうのである。

この話、現代物理学の理論によく似ていると思った。観測者が、電子がある瞬間にどこにあるかを突止めようとすればするほど、その存在はあいまいになってしまうという、あの話だ。どれだけ小さかろうが、ただの小さな粒である電子がどこにあるかがわからなくなるなんて、どうしても理解できなかったのだけれど、上の話を聞くと、なんか少し理解できてきたような気がしてきた。

時々政治家が、政策の是非を問われたとき、「それは歴史が証明してくれる。」などと格好いいことを言っているのを耳にしたことがあるだろう。政策に限らず物事の意味というのは、後から歴史に照らしてみて初めてはっきりするのかもしれない。

 

参考文献:ダンカン・ワッツ:偶然の科学、早川書房

 

 

 

 


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