2012年6月21日
Vol.141
 
     
専門家について

最近テレビや新聞に専門家と呼ばれる人が登場することが多くなったと思う。もちろん原発事故に関連した原子力の専門家に災害の専門家、地震の専門家、実に様々な専門家が登場している。もちろんこうした専門家のセンセイ方は、大学の教授だったり、国の研究機関の研究者だったりするわけで、我々素人の知らない専門的な知識を持っているのだから、困った問題に対しても専門家としての助言を与えてくれることになっている。

しかし、どうもセンセイたちの話を聞いていると、その先生の専門にぴったり合った話については突っ込んだコメントをしてくれるのだけれど、専門から少し離れた話題や、最終的な解決策ということになると、とたんに話の焦点がボケたり、当たり障りのない話になってしまうことが多いような気がする。

「しっかりとした議論をして、適切な答えを早急に出すべきですね。」

と言われても、そりゃそうだけど、残念ながらそのコメントから有益な示唆が得られたとは言い難いだろう。なぜこういうことになるのだろうか。最近の専門家は以前より質が下がったとうことなのだろうか。多分そんなことはない。研究者たちは今も昔も一生懸命研究をやっているに違いない。むしろIT技術の進展によって以前より効率的に情報を集めて、以前よりはるかに効率よく研究をしていると言っても間違いないだろう。

問題の答えを専門家が出せない理由は、「専門家」という存在の本質にかかわることのような気がする。つまり、専門家が専門家であるためには、ある特殊な狭い分野について専門的な知識を持っていることが必要となる。専門家がその分野の大家となるためには、更にその分野を深堀して行くことになるだろう。当たり前だ。しかし、そのことは、その専門分野以外では、必ずしも専門家ではないということの裏返しでもあるのだ。むしろその人の専門性が高まることは、専門的な分野の深さが深くなる一方で、その知識の幅は狭くなると言えるかもしれない。

もちろん、直面する問題がその専門的な分野の中で収まる話であれば、事はすんなりいくだろう。しかし、残念ながら昨今の我々が直面する問題は、実に様々な局面を持つ複合的な問題ばかりだ。一部の専門的な知識だけでは問題は解決しそうもない。ここに専門家の限界が露呈してしまうのである。じゃあ、全体を俯瞰して見ることのできる政治家が、総合的な判断をすればいいかということになるのだけれど、今度は専門的な知識がないので個々の事実をつなげることが出来ないというジレンマに陥ってしまう。これは困った。

どうすればこの難儀な問題を解決すればいいか、凡人の私にはさっぱり分からない。でも一つだけ言えることは、今我々が直面する問題は、特定の専門家や政治家の資質の問題というよりは、上に述べた構造的な問題であるということではないかと思う。みんながそれを理解し始めた時、問題解決の糸口が見えてくるような予感がする。

 

 

 


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