2011年12月28日
Vol.131
 
     
モールス通信再考

以前にも一度取り上げたモールス通信。気合を入れるほどでもないのだけれど、相変わらず週末にのんびりと通信を楽しんでいる。それに関連してWilliam G. Pierpont著「無線電信の巧みと技」という本の中に次のようなくだりを見つけた。

「モールスによるコミュニケーションは特別なものです。ヘッドフォーンをして聞いているとき、いつも目を閉じます、すると私は声を出したり聞いたりしないでコミュニケーションをしていることを感じます。たくさん話したり聞いたりした日はうれしい。 メッセージは囁きにも似て実際に耳にする会話などよりもずっと記憶に残るものがあります。私はもう言いたいことを形にしないで直接符号に変換して送信する指先に伝えます。 それは従来の言語中枢からくるものとフィーリングが異なります。思考がじかに現れたリラックスしたコミュニケーションなのです。」

いや、すごい感想だなあと思った。ここに書いてあることは、到達しうるモールス通信の最高の境地というのは、符合を符号として考えることなく直接それを理解することにあることのようだ。意識の中からト・ツーという符号とそれを理解するプロセスを消し去り、その上でその言葉の意味することに気持ちを集中するのである。

数十年ぶりにモールス通信に取り組んで、まあそこそこには通信ができるレベルには到達した。でも、上に書いてあるようなもう一段上のレベルには全く至っていないことは間違いない。もちろん、趣味の話だからどこまでやらなければいけないということはないが、できれば上に書いているようなリラックスしたコミュニケーションをしてみたいものだと思う。

こういう方法論というのはもしかするとモールス信号の習得だけではないかもしれない。目の前にある対象を”それ”として見ている間は、その本質的な意味は見えてこない。修練を積むことによって、そういう認識プロセスを無意識に追いやった時に初めて深い意味が目の前に広がっていくような気がするのだ。

そういえば最近、自分でいいなあと思うモノクロ写真を他の人に見せる時に、その写真にあまり興味を示してもらえないことがある。私としては、写真の構図や被写体も大事だけど、光の具合やトーンの調子なんかがいい感じだなあと思うんだけど、見る人はそこにだれが写っているとか、何をしているかというような事柄に目が行くらしい。そんな風にみると私の写真は、ただの駅前の雑踏だったりするわけだから、そりゃつまらないということになるのも当然だ。もちろん私自身の写真に対する理解がそんなに深いわけではないけど、それでもそういう表面的な認識プロセスというのは、自分で写真を見るときにはあまり意識されないことは間違いないと思う。どちらかと言えば写真を「感じている」といってもいいだろう。

たぶんそれがモールス通信において前述の「私は声を出したり聞いたりしないでコミュニケーションをしていることを感じます。」ということなんだろうと思う。

もうちょっとモールス信号に踏み込んでみたいと思う。それが私の写真を進化させるためのヒントにもなるのだから。多分。

 

 

 


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