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補助線について
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補助線ってご存知だろうか。学校の数学で幾何の問題を解くときに、実際にはかかれていない線を書き加えることによって解への道筋をつけるあれである。私は、中学校で始めて幾何を習ったときの担当の先生との相性が悪く、それ以来幾何学なるものがずっと苦手なので、正直補助線と聞いただけで頭の中にアドレナリンが出てくるのを実感できるくらいある。そのくらい幾何学が嫌いだった。 まあ、先生との相性が悪いというのは言い訳に過ぎないわけで、私の精進不足が根本的な原因であることは言うまでもない。まあ、それはいいとして補助線って一体なんだろうとということをちょっと考えてみたいと思う。 幾何学での補助線というのは、なんとなくひらめきみたいなものが必要で、目の前の三角形のなかに、スーッと一本の線を加えることによって、あぶり絵を見るようにその図の中に隠されていた意味が浮かび上がってくる。きっと幾何学の得意な人は、その感覚がなんともいえない快感なんだろうなあなどと思ったりする。でも、補助線というのは実はそういう天才的才能を必要するものばかりではないらしい。 例えば、地球上の場所を特定するための緯度や経度を考えてみよう。いまどき赤道を通った時に本当に赤い線がないといって嘆く人はいまいが、もちろん緯度や経度というのは実際に存在する線ではない。お約束事によって人間が勝手に引いた補助線なのだ。つまり地球上のどこに自分がいるかということを他の人と理解しあうために補助的に引いた線の集まりが緯度や経度の線なのである。緯度や経度という概念がないとき、地球上にいた人々はただ群れていた。遠くにいる人やずっと北の寒いところにいる人は、ただ遠くにいるという以上の意味を共有することはなかった。その補助線を引くことによって、その遠さに「どのくらい」という数値的な意味が付加されたのである。 なんでも、経度を決めるときに経緯0度をイギリスのグリニッジにするかフランスのパリにするのかで論争があったらしい。結局グリニッジになったことは皆さんご存知のことと思うが、今から考えるとどこを0度にしようが地球が丸いことには変りはないのだから、そんなことどうでもいいことと思われるに違いない。でも当時は国家の威信をかけた大論争になっただろうこともなんとなくわかる気がする。たかが補助線、されど補助線である。 さて、そろそろまとめよう。ここで何が言いたかったか。私は世の中の良い事や悪いことを決める判断基準というのは、この補助線みたいなもんではないかと思うのだ。良いことと悪いこととの判断基準は、言ってみればどこを経度の0度にするかというような極めて恣意的な決め事によって判断されているに過ぎないと思うのである。今日正しいことも明日はどうなるかわからない。それは経度の基準がグリニッジからチバケンに移ったくらいの話にしか過ぎないのである。 でも、補助線がなければ人々はコミュニケーションする事が出来ないことも事実である。地球は丸いというだけでは飛行機も飛ばせなければ船も運航できない。意味なんか全然ない補助線が全ての意味を作り出している、ちょっと面白いと思うのだがどうだろうか。 |
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